マグログ

タイトルと内容は大きく異なります。

マグログ。タイトルと本文の内容は大きく異なります。

20世紀を生きた男たち(1)

まずは、小林秀雄対話集

「直感を磨くもの」から、取り上げたいと思います。

読んでて思ったので、最初にお断りを入れます。

①これは、本のレビューではありません。自分が文章を理解し、アウトプットするためのものなので、読んで文章の論理性がなくなる可能性が有ります。

②この対話集に置いても一人ひとり取り上げて考えるので、全体の評価を期待する人は、アマゾンで見てください。

③すごい文章がヘビーで、自分のなかに落としこむのにすごい時間が掛かりそうです、自分の何千倍も勉強した人の知恵を紐解くには、時間が必要です。

④すべてが試行錯誤です。暖かい目で見ていただけたら幸いです。

ご理解よろしくお願いします。

三木清の概略

日本の哲学者で最も有名な西田幾多郎氏のもとで学んだ後、ドイツでリッケルトハイデガーの教えをうける。戦時中を生きたため、その思想から度々投獄され、戦争が終わった直後、獄死した。

 人間について考える

パスカルについて書いたものについての話のとき、

三木が「どんな時代においても、人間の進歩は無いように感じる。科学が発達すれば戦争はなくなるとよく人が言っていたが、そんなことは今度の戦争(WWⅡ)で証明されたわけだ。」と言ったものをうけて小林が言った。

小林 だから僕なんかパスカルをまた読み直してみて、とても新鮮で面白いというものはそうなんだよ。つまり人間が正直で率直でいればいつも起す疑問というものだけを考えておる。つまり、考えているんだよ。その処が実に新鮮だね。まあ、思想家というのはだいたいそういうものなのかもしれないが。

これは、1941年の話しであるが、2014年という現在においても感じる。スマートフォンや宇宙ロケットのような、先端科学や私たちが普段使うものは昔と比べて圧倒的に進歩しているが、私たち人間は進歩しているのだろうか?現在も香港デモが行われたり、デモという形でしか政治に対し訴えることしか出来ない。世界へのメッセージを武力でしか伝えられないという世界は果たして進歩しているのだろうか?

 

では、パスカルは、どんな思考をしていたのだろうか?無知な僕はちょっとググることにした。本来は、原著に当たったほうが良いのだが、今回はネットで。


人間は考える葦である とは? - 哲学 - 教えて!goo

こちらのベストアンサーを引用します。長いですが、非常に素晴らしい回答なので、抜粋という形ではなく、原文ママです。

「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。

しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。

しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょうパスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。

 小林は、このパスカルの人間的な精神力について言っていたのではないかと思います。精神で、運命に抵抗し不屈の意志で、思索する事こそが、人間のあるべきところであると感じます。

実験的精神

また、三木はこれを受けて当時の現代人は、この「考える」ということが非常に欠けていると述べます。知識人という層もまた、たくさんの本を読んだ人の事を指してしまっており、知識人の格を下げてしまっていると。

小林もまた、本来の教養というものが失われつつある事を憂いていた。

三木 結局一番欠乏しているのは、実験的精神だと思う。つまり、本を読むということが学問することであるという考え方を破ったのは、近代科学なんだ。近代の科学者は、教養人というものと違う。読書が学問であるという伝統を変革したところに近代科学の豪さがあると思う。その精神は、教養とは違うもっと原始的なものなんだな。そういう精神を科学ばかりでなしに、他のものにおいてももっと掴まなければならないんじゃないかと思う。

原始的という表現は、私なりに解釈すると、原始人が火を起すために考えること、魚を採るためにどうするか考えるってことだと思う。この驚きが、当時の近代人に失われていると。

 

この実験的精神は、本当にそのとおりだと感じるし、当時から70年以上経った今でも日本は変わっていないのだなと感じた。小学校から今の大学に至るまで、常に本を通しての知識でしか、語ることの出来ないということは、かなり問題がある。

例えば、日本のワイドショーは、非常に分かりやすい。発展途上国の貧困についてその問題の専門家が招かれたとする。その専門家は、その国の貧困について話すわけだ。たしかに、専門家の言っているとおりなのかもしれない。しかし、その専門家は現地に一年の間、どのくらいいるのだろうか。貧困の最前線にどのくらいいるのだろうか。その分野の論客と言われる人が、その現場にいないことに違和感を感じるのだ。

また、大学生のいわゆる「意識高い系・キョロ充」のことが嫌いなのも、経験してないのに、さも自分の事のように言う違和感からくるものなのかもしれない。「俺の先輩がさ~」とか「友達が~」と話してくるのは、自分の事じゃないんかい!、と非常につまらないのだ。

言い訳をすると、自分もこうなる可能性がある。このブログに本を読み、自分の思考のトレーニングをしているが、この話を人に話してしまう可能性があるからだ。無意識のうちにやっていることなので、自分も気をつけなければならないだろう。

追求していく精神

だからこそ、現場の最前線にいるという人は、チャンスなのだ。目の前に取り上げなければならない課題やケーススタディーがあるのだから。自分が現在生きている立場、自分の特殊な立場にいるということを理解してその問題を究めなければならない。究めていくものこそ、学問である。

三木 (アメリカの行動主義という考え)よりもっと広いわけです。人間の本質は物を造るにあるという考えなので、ものを造るということは、産業だけではない。すべての文化がそうだし、また人間そのものも造られるものだね。僕は人間というものは小説的動物であると書いたことがあるが、すべての人間は人生に関して小説家だね。そういう意味まで含めて、工作的人間というものを考えなければならぬと思う。

人生において、人間は人生においてなにかを生みだす動物だ。そして、二人は死期についても、語る。進歩の思想に立つと、どんなことでも少しづつやればいいとなる。10あるものを今日は1つ、やって明日もまた一つやればいいやとなる。この考え方に毒されている。これで終わりとなれば、10もっておけば10出さなければならないとなる。これは、生活態度においても同様である。

死を身近に感じ、命がけで取り組むことができたら日本の文化も立派になると思う。

 

常に100%の力を出しきることができるのは、死というものである。この話を読んでいて私は、スティーブジョブズの話を思い出した。

あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。ドグマ(教義、常識、既存の理論)にとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。それ以外のことは、全部二の次の意味しかない。

 

死は生命にとって唯一にして最高の発明だ。

 

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定を私は本当にやりたいだろうか?

 非常に二人の話に似ている部分もあり、21歳の若者だが少し心のなかで意識はしておこうと思う。私も明日交通事故でなくなるかもしれないのだから。