マグログ

タイトルと内容は大きく異なります。

マグログ。タイトルと本文の内容は大きく異なります。

20世紀を生きた男たち(2)

概要

・折口さんは、折口学と呼ばれるぐらい、オリジナリティの高い研究をしていた。

・歴史を知るためには、当時の生活者の目線で考えることが非常に重要である。

・日本人は、視覚を言葉にするのが上手で、西洋人は頭で考えたことを書き起こすのが得意である。西洋人が哲学が強いのも、それが理由なのかもしれない。

 

まえがき

今回も、小林秀雄の直感を磨くものから、書いて行きたいと思います。これほんとに面白いんですよ。でも、伝える、書き起こすとなるとかなり難しい作業だなと感じることがすごく多くあります。あくまで、私なりの見解も含むので、本来の文章を読むことをおすすめします。

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 

 

 

折口信夫について

 折口さんは、柳田國男氏を慕って、終生師事します。昭和の古典研究を推し進めた一人であり、彼の研究内容は「折口学」と呼ばれています。自分の研究が、自分の名前を冠するのは、なかなか無いことです。こういった機会に、このような偉大な人を知ることができるのもこの本のいいところだなと思います。

 

温故知新の難しさ

 温故知新とは、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という意味です。日常に置いても、使う機会は多いですよね。この温故知新を小林は、本来の意味として使うことが少なっているのではないかと危惧します。

 

 温故知新ということは難しいですね。どうも逆の知新温故という具合になりたがる。現代の方から歴史を観念的に解釈する傾向があります。そのほうが易しいですからね。しかしこれは本当の利益にはなるまいと思うのです。文学も芸術も時代の裡に溶け込んでいる。その溶け込んでいることを直覚することが大事なんです。そういう直角を養う労ををとらず、ある時代の文学的観念、美的観念を作り上げてしまう傾向が非常に多いのでありますまいか。例えば、昔の人にとって瀬戸物の美しさとは、それを日常生活で使用することの中にあった。

 利休の美学は、そこから生まれております。現代では瀬戸物の美しさを硝子越しに眺めている。それで19世紀西洋美学には抵触しないのですよ。瀬戸物の美しさが観念だけのものになってしまっていることに気がついていないのです。茶器屋さんは、これを鑑賞陶器と皮肉っています。

 

 歴史は価値のあるものです。お宝鑑定団という番組があるように、歴史的な骨董品が高い価値で売買されています。観賞用として持ってる人が多いですが、それで歴史に思いを馳せることはできるのでしょうか?この瀬戸物でご飯を食べたり、茶を飲んでいなければ彼らの生活に寄り添うことは出来ないでしょう。

 

 歴史を知ることは、知識を知ることではありません。彼らの歩いた道、空気、使っていたもの、思考、全てを感じ考えることで、ホンモノの歴史を知ることができるのだと思います。

 

目の日本人、頭の西洋人

 伝統についての話を編集部が小林に振ったときの、小林秀雄の受け答えがとても印象的でした。

 

 

僕は伝統主義者ではないので、文学もやはり西洋のものを尊敬しております。自分の為になるもの、読んで栄養がつくものはどうしても西洋人のものなのです。若い人はやっぱり西洋文学をどんどんやるのが正しいと思います。何と言っても近代文学は西洋の方が偉いです。

 併し物を見る眼、頭ではない、視力です。これを養うのは西洋のものじゃだめ、西洋の文学でも、美術でも、眼の本当の修練にならない。日本人は日本で作られたものを見る修練をしないと眼の力がなくなります。頭ばっかり発達しまして。例えば短歌なんかやってる人は、日本の自然をよく見ている。眼の働かせ方の修練ができているいう感じを受けますが、西洋風な詩を作る詩人のものを読むと、みな眼がだめです。頭だけが良い。

 

この考えに非常に共感が強いです。松尾芭蕉の俳句を挙げてみます。ヤフー知恵袋にあったので、このまま転記させていただきます。

 

 


草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家
(このみすぼらしい草庵も、人が住み替わるときがやってきた。新しく住む人は世捨て人のような自分と違って弥生の節句には雛も飾ることであろう。こんな草庵でも移り変わりはあるものだ。)

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
(春は過ぎ去ろうとしているが、それを惜しんで鳥は鳴き、魚は目に涙をたたえているかのようだ。旅に出る自分を見送る人々も、ともに別れを惜しんで涙していることだ。)

夏草や 兵どもが 夢の跡
(夏草がぼうぼうと生い茂っている。その夏草を見ていると、ここがかつて勇士たちが戦って奮戦した場所とは思われず、ひとときの夢の跡のように感じられることだ。)

五月雨の 降りのこしてや 光堂
(毎年降る五月雨が、この堂だけは降らずに降り残したのであろうか。五月雨の中で昔からの美しい姿をして、光堂の名のように光り輝いていることだ。)

象潟や 雨に西施が ねぶの花
(この寂しさを感じさせる象潟の地にねむの花が咲いている。その風情は、あの中国の美女西施が物思いに沈んで、目を閉じているかのようである。)

あらたふと 青葉若葉の 日の光
(ああ、尊いことだ。日光の御山は、日の光がさんさんと青葉若葉に降り注いで光り輝いている。東照宮の御威光もまた、そのように天下に行き渡っていることだ。)

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
(あたりは静かで、物音ひとつせず静まりかえっている。その中で蝉の声だけが岩にしみ入るように聞こえ、静寂さをいっそう際立たせている。)


五月雨を あつめて早し 最上川
(降り続く五月雨を一つに集めたように、なんとまあ最上川の流れの早くすさまじいことよ。)

荒海や 佐渡によこたふ 天の河
(日本海の荒海を隔ててかなたに佐渡が島が黒い島影として見える。その佐渡が島に向かって、天の川が白々と夜空に大きく横たわっている。佐渡が島の歴史への懐旧の思いがつくづくと感じられる。)

むざんやな 甲の下の きりぎりす
(なんともいたましいことだ。あの実盛の形見の兜の下ではこおろぎが鳴いていて、秋のあわれを誘うことだ。)

石山の 石より白し 秋の風
(那谷寺の岩は石山寺の石よりも白く曝されているが、その上を白い秋風がしらじらと吹き渡っている。)

 

 意味ももちろん美しいですが、声に出すと分かる語感の良さ、意味が分からなくても心にすっと入る気持ちのいい俳句ですよね。このリズムや染みこむ言葉は、日本語にしか生み出せないものでは無いでしょうか。 

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何気ない自然の美しさにときめくことができるのは、和の心であると私は思います。

 

 西洋の歌は、恋愛とか妄想ものが多いんですよ。いま、ゲーテの詩集を読んでいるのですが、なかなか理解できないところも多くあります。私は、文字から景色や人を想像するのですが、この感覚を西洋の詩だとなかなか出来ないんですよね。

 でも、哲学をする上では、西洋の方が進んでいます。フランスは、授業に哲学がありますからね。近い時期には、F・ベーコンの原著とか読めたらいいなーと思います。 

 

 最後に、二人の共通認識として、詩を味わいたいなら、そこは原著に当たらなければ意味が無いとのことでした。小林が言うには、フランス語の詩を読みたいなら、寝言がフランス語になるぐらいじゃないと、詩のもつ本当の意味を味わうことは出来ないぞと。私の好きな白洲次郎もまた、GHQとやり合っている時の寝言は英語だったそうです。本物のバイリンガルはそこまで行かないと駄目かもしれないですね。

 来年、インドに英語の語学学校に行く予定ですが、せっかくならヒンディー語を覚えてやろうという貪欲な姿勢で挑もうと思いました。

 

 読んでいただき、ありがとうございます。なんでも味わうものには苦労が必要なのかもしれないですね。

 

でわでわ~:)

 

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